私のバレーボール人生!


高校生編

 

テキスト ボックス: 高校生編@

高校生になり、バレー部に入ろうかどうか迷っていた。自分には実力が無い(中学時代は6番目の選手)のに、地区大会優勝チームの中学から来たというだけで注目されていた。先輩がたには「早く来いよ」と誘われ、同級生からは、「バレー部にはいるんでしょ?」と声もかけられた。

とてもいやだった。

でも、最終的には自分にはバレーしかないと思いバレー部に入ったが、一緒に入部した同級生の経歴を見ると、ほとんどの人が中学校時代に主将を務めていた逸材ばかりであった。その中の2人がクラスメートとなり、まじめな2人が朝練習をするという事で、朝1時間のパスに付き合わされた。

そして、夏休みになり私に悲劇が2つ訪れるのである。この悲劇が波乱万丈!のはじまりであり、私のバレー人生を大きく変えるのである。そんな中で、退部することなく3年間バレーボールを続けていき、遅咲きのバレーボーラーが誕生していくのである。
2009/06/05

 

テキスト ボックス: 高校生編A

高校1年の夏休みは大変でした。
インターハイが終り、最上級生が引退して新しいチーム作りが始まりました。私はそのチームのセッターに任命され練習に励んでいました。

しかし、夏休み早々に福島の祖母が亡くなり合宿に参加できなくなりました。セッターというポジションは、練習には欠かせないポジションで、セッターが欠席するとアタック練習が出来なくなるのと、チーム練習もまともに出来なくなるのです。大変チームに迷惑をかけたと思います。

しかも、夏休み前に行われた血液検査で「要治療」の判定が出ました。血液中の鉄分が不足していたのです。一般的に言われる貧血って奴ですね。「病院に行くと1ヶ月入院しましょうか?」って言われるほどひどいものだったらしいです。もちろん断りました。そのおかげで、これから何ヶ月間か週に1〜2回放課後に病院へ通い練習に出れなくなりました。
 
さらに追い討ちで、夏休み中に初めての練習試合が行われました。私はセッターでレギュラーを取っていて、試合にも出場していました。でもこれが私のセッターとしての高校最後の試合となりました。私があまりにも攻撃的なセッターで、すぐにツーアタックやダイレクトアタックを打ってしまうというのが理由で、アタッカーに転向しろといわれたのです。

これで、レギュラーからはずされ、一年間の下積み生活が開始されました。

まだ、1年生でしたが、同級生のうち6人も試合やベンチに入っていました。それなのに私はベンチにも入れず、球拾いをず〜っと続けなければならないことになったのです。中学の時と同様で同級生の中では、やっぱり下手な方だったのです。
2009/06/06

 

テキスト ボックス: 高校生編B

下積み生活の1年が終わろうとした時、身長も高く(同級生では2番目)左ききの私に期待する所も多かったのだと思うのですが仲間が練習に付き合ってくれた。レギュラークラスと球拾いでは絶対的な練習量が違ってくる。そのため、中学時代からそんなに多くアタック練習をしていないこともあり、アタック練習をよくした記憶がある。

そのかいもあり1年先輩が引退した後にはライトアタッカーとしてレギュラーポジションをとることが出来た。相変わらずレシーブは「へたくそ」だったが、私にはトスのうまさとアタックの正確さというライトアタッカーに要求される2つの要素を持ち合わせていた。ライトアタッカーはレシーブが乱れた時にレフトアタッカーへトスを上げることが多い、そのトスが正確なほど得点率が上がるのは言うまでも無い。

また、ライトアタッカーへトスがあがる時は、レフトアタッカーにミスが続き流れを変えたい時が多く、そこでライトアタッカーがミスをしたら取り返しがつかなくなる。アタックの正確さは、ブロックされることが少なく確実に点が取れるので重宝された。

トスがうまいのはセッターをやっていたのが原因だが、ではなぜ、アタックが正確なのかをここで語ろう。

それは中学時代、いつも練習相手が女子バレー部であった。私は女子バレー部にレシーブされるのは許せるが、ブロックされることを許せなかった。そこでブロックされない方法としてブロックを良く見てアタックを打っていた。そのおかげで身についたのがアタックの正確さだと思っている。当時は針の穴に通すようなアタックって言われていました。
2009/06/12

 

テキスト ボックス: 高校生編C

最初の大会で県東部ベスト4というすばらしい成績をおさめた。自分たちにはそれなりに自信はあったのですが、周りのチームは「まさか」と思ったと後から聞きました。

たいした監督もいないチームがベスト4に入るのはすごい事だということです。しかし、この後、私たちのチームはマークされ、常にベスト8にとどまってしまった。監督がいないということでチームが成長していかなかったんです。個人個人はすごい選手が集まっていたんですが、チームワークやコンビネーション、そして戦術というものがなかったんですね。

そして、春になり東部NO.1チームの監督が私たちの高校へ転勤してくることになったんです。この監督は、鬼監督という噂があり来る前からみんなでとても恐れた。しかし、この後引退までの3ヶ月間は厳しかったが充実したバレー生活を送ること出来たのである。もしかしたら、今の私があるのもこの3ヶ月間があるからかもしれない。
2009/06/20

 

テキスト ボックス: 高校生編D

最後の3ヶ月は、練習もハードだったが、練習試合もたくさん組まれ休みも無い状態だった。でも、練習試合相手は県下でも強豪のチームばかりで、そんなチームと対戦するごとにチームが強くなっていくのが良くわかった。

そしてポジションの変更も実施された。センタープレーヤーに背の低い選手がいたため、背の高い私と交代させられた。しかし、私はセンターに向かなかった。一言で言えば「どんくさい」んです。センターは瞬発力があり、素早い動きが要求されたが、どうしても私にはできなかった。それでも1ヶ月くらいセンターポジションをやっていたと思いますが、失格の烙印をおされた。

5月の連休からは、レフトへコンバートされた。レフトはエースポジションと言われるだけあり、ライトとは、役割が大きく違った。本当に責任感が必要な大変なポジションであった。でもこの経験は大学に入ってから相当生かされる事になる。(大学編はまた後日)

そして、最後にインターハイであるが、4月から鍛え直されただけのことはあって、快進撃をする事になる。
2009/07/18

 

テキスト ボックス: 高校生編E

インターハイ県東部大会の2回戦で最初の山場がやってきた。最初の大会以来低迷していたため、2回戦でベスト4常連のチームとの対戦が待っていたのである。

このチームは、センターに190cmを越えるプレーヤーがいて、その選手を中心として良くまとまっていました。

1セット目は、チームのエースアタッカーがことごとくこの選手にアタックがブロックされ、散々たる結果でした。
ここで、監督が取った作戦は、私とエースアタッカーを入れ替えたのです。私はブロックをうまく抜いていくタイプでエースアタッカーは、エースらしく馬力でアタックを決めていくタイプと正反対のタイプだったのです。

この作戦は「さすが、監督」っていう結果をもたらしたのです。
私は、相手のブロックを見事に抜いてどんどんアタックを決めていき、エースアタッカーも、190cmがいないため、息を吹き返し、アタックが決まりだし、2セット目は取り返しました。

そして、3セット目はすごい結果になりました。
勢いに乗った我がチームは、このベスト4常連のチームに対し、1点も与えず、15−〇のスコアで勝ちました。

そして、この大会ベスト4まで行く事ができ、県大会へ出場する事が出来ました。

高校生活で、インターハイの2回戦が一番の思い出となりました。これも、あの最初は怖く恐れていた監督のおかげだと思っています。でも、この監督は面倒見の良い人で、私はこの監督を慕って大学に入ってからも高校に顔をだし続けることになります。就職の時もとてもよくしていただきました。

以上で高校生編は終りです。
近いうちに大学生編を書くつもりです。
2009/07/19

 

 

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